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『ブータン仏教から見た日本仏教』

カイラスから戻ってからしばらく日常に戻るのに時間がかかってしまった。カナダで人ごみに入った瞬間に体が凍りついたようになってしまい、それから何か自分と外の世界がかみ合わないようなふわわした日々を過ごした。

カナダは2回行ったけれど、初めてカナダに行ったときのような感激はなく、チベットのことばかり考えて終わってしまった。明後日からは西オーストラリアだ。今まではオーストラリアというと
嬉々として準備したものだ。それが何となく乗り気になれない。

西オーストラリアから帰ったら7年ぶりのブータンだ。いろいろ変わったらしいので図書館で本を借りてきた。以前に比べ、ブータン関連の本が増えたことに驚いた。何冊か見たうち、もっとも面白かったのがこの本。
これを読んでいままでわからなかった点がどんどんわかってきて、すっきりした。仏教はチベットから入った。日本ではこの仕事を始めるまで全くという全く仏教とは縁のない生活をしていた。どちらかといえば神道の本が関わりがあったといえるかもしれない。だからチベットに行くために仏教の勉強をして、チベットで仏像について学び、仏様の教えについても聞きかじった。さらに勉強しようとしてネパールや日本で仏教の本を買って、読むとどうも母国語で書かれているにもかかわらず日本の仏教はわからない点があまりにも多い。どうしてそうなるのか、どうして日本のお坊さんは妻帯しているのか、どうして日本には阿弥陀様(チベットではAmitabaと Amitayu)が二つに分かれていないのか、その他にも疑問だらけで聞く人もいなかった。
 さらに、この間、グゲに行って驚いたのは20代そこそこの特別の教育を受けたわけでない普通の若者でもお経を読めるということだ。彼らは、「読めるけれど、ところどころ専門用語がわからない」と言っていた。この点についてもとても驚いた。彼らはまるでお坊さんが読むように拾ったお経をすらすらと読んだ。(拾った、というのは文革で中共が焼いたお経の残りが散っていたから)。日本では考えられないことだ。

カイラスから帰ってきてぼーっとして、起きているような寝ているような気分で悲しい気持ちでいっぱいでいたけれど、ブータンでまた少し気持ちが入れ替えられな気がしてきた。
by gajumalo | 2007-10-29 21:15 | 和書
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